インド宗教史を見たときに、ヴェーダンタ哲学を学ぶ者としては、面白いことに、とくにプラーナはストーリー仕立てになっていて、読み進めていくと、数々の教えに出会い、自分の解釈いかんに任され、経験となり、人生を導かれていくようになっています。その物語の方法というのが、目に見えない心理や愛、普遍性などという概念を浸透させるにもっともパワフルな方法である、ということはわかっていたのですが、なんとなく、自分の中で立証できる何かがないのかなと、思っていました。
今日は、こちらのアーティクルをご紹介させていただきます。著者が心理学者のジェローム・ブルーナーによる『ストーリーの心理学』を改題していて大変わかりやすいです。
ストーリーへの期待と転倒
カテゴリー的な「論理」に対して、「ストーリー」はナラティブな思考様式である。「論理」は因果則によって情報処理をしながら真理を目指すが、「ストーリー」は相互折衝的なプロセスであり、関係論の範疇にある。
だから「ストーリー」は、「語り手」によって伝えられるだけでは充分でなく、「聞き手」によって解釈されることで、はじめて成立する。
このストーリー/論理という対立は、前回、前々回の『メディアのアイデンティティ』で参照した関係/内容によく似ている。「関係」における提供者がそうだったように、「語り手」の動機は常に不純であり、「聞き手」へのメッセージが必ず含まれている。
そこでは「聞き手」による「ストーリー」への「期待」と、それに対する「転倒」が弁証法のように関係している。「期待」とは「聞き手」が理解するためのフレームで、それが「転倒」させられることによって違和感を生じ、その結果として立ち現れるのが物語性である。それはときに「聞き手」の転機になったり、「聞き手」と同じ解釈をする集団を文化的な共同体にしたり、さらにその結束を強めたりといった影響を与える。
この効用は、「語り手」が「ストーリー」を通じて提供する、文化のモデルによってもたらされる。またそれを受け取った「聞き手」は、自らが想像する文化のモデルに照らし合わせ、それを洗練させるのに利用する。だから「ストーリー」は、「聞き手」の存在的ジレンマによって、はじめて意味を与えられていることになる。
「ストーリー」を引用して代弁させたり、実証のためのソースとして利用するといった例を見てもいい。それらは「聞き手」が現在に可能性を見出す行為であるが、参照するのは常に「語り手」の過去なのである。
人生は芸術を模倣する
「ストーリー」は「語り手」の過去の「経験」から作り出される。しかしそれを現在の可能性として取り出すのは、「聞き手」によって行われる。
つまり「聞き手」は「語り手」に自己投影し、「語り手」が見る世界を通じて、自らの日常生活を内省している。
だから、かつてオスカー・ワイルドが「人生は芸術を模倣する」と言ったのは正しかった。たしかに、「語り手」は「経験」を「ストーリー」に仕立て、「聞き手」はその「ストーリー」を芸術として享受し、さらにその芸術が「聞き手」の「経験」へと反映されている。
ある事実が、もはや現実に働きかけるためにではなく、自動的な目的のために物語られるやいなや、つまり要するに、象徴の行使そのものを除き、すべての機能が停止するやいなや、ただちにこうした断絶が生じ、声がその起源を失い、作者が自分自身の死を迎え、エクリチュールが始まるのである。
ロラン・バルト『物語の構造分析』-「作者の死」(P.80)
一編のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、異議をとなえあう。しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、これまでに述べてきたように、作者ではなく、読者である。読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。
ロラン・バルト『物語の構造分析』-「作者の死」(P.88-89)
※ ロラン・バルトによるエクリチュールの定義は、社会的にフォーマットされた書き言葉のことである。社会はエクリチュールが記録されることによって制度化され、人はエクリチュールを選ぶことによって自己が規定される。
心に響くストーリーの書き方
ロラン・バルトが言うように、言葉を放った途端に作者(語り手)が死を迎え、読者(聞き手)にエクリチュールが書き込まれるのであれば、「聞き手」は「語り手」の言葉によって自己を言語化していることになる。
また「聞き手」はその言葉を再利用することで、自らも「語り手」となりエクリチュールを再生産する。つまり「ストーリー」は、「聞き手」が他者の言語によって自己性を獲得することと、「語り手」が「自己語り」によって他者と結びつくことを循環させている。
そしてもうひとつの「ストーリー」の効用は、断片的な「経験」に一貫性と連続性を与えることである。前々回に論じたとおり、これはアイデンティティが本来持っている質であり、その投影されやすさによって、「ストーリー」は「心に響く」のである。
ブルーナーは『ストーリーの心理学』において、「自己語り」や「ストーリー」の質の問題から、「心に響くストーリーの書き方」を以下のように導き出している。
- ストーリーはプロットを必要とする。
- プロットは目標への障碍を必要とする。
- 障碍は人を考え直させる。
- ストーリーに関連がある過去だけを語れ。
- あなたが登場させる人物に支持者や縁者を与えよ。
- その登場人物を成長させよ。
- しかし、登場人物の同一性は保持させよ。
- そしてまた、登場人物の連続性を明らかにさせ続けよ。
- あなたの登場人物を対人的世界の中に位置づけよ。
- 必要ならば登場人物に自分自身を説明させよ。
- 登場人物に雰囲気をもたせよ。
- 登場人物が意味をなさずにいるときは悩め——彼等も悩ましめよ。
J・ブルーナー『ストーリーの心理学』(P.96)
終わることのない弁証法
ブルーナーによると、われわれは「ストーリー」によって自己の記憶と想像を関連付けながら、意匠の補充と消費を繰り返している。さらに「自己語り」によって、世界の像を作り上げ、自らが信じる文化を磨いていく。
これはきっとわれわれが持って生まれた習性のようなもので、その弁証法が終わることはないだろう。
だから、どうやら冒頭の問いかけは間違っていた。「経験」の記述に「ストーリー」が向いているのでも、「ストーリー」という方法が「心に響く」のでもない。われわれは「心に響く」ような「ストーリー」によってしか、他者と「経験」を共有できない。これは生きていくことに関わる、もっと大きな問題である。
「論理」は「経験」を命題として実証するが、「ストーリー」は「経験」を元に仮定する。したがってわれわれは、「ストーリー」をその真偽(ノンフィクション/フィクション)ではなく、自己投影できるかどうかで選んでいる。そうやって希望や喜びを見つけたり、「論理」によって突きつけられる事実から逃げ出したりするために。
そしてきっとこれからも、われわれは過去の「ストーリー」を持ち出し、さまざまなバージョンに書き換えては、現在の可能性を切り拓いていくだろう。いままでもそうだったように、あらゆる歴史は「ストーリー」としてしか語られない。
ありがとうございました。
Photo: Mika Ruusunen via Unsplash.com
Source: http://overkast.jp/2013/10/making-stories/